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人物史・西出町ゆかりの人々
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| 東山魁夷 入江小学校開校80周年式典 夫人と共に |
高田屋嘉兵衛 | 別車博資 |
| この地域の学校、入江小学校から多くの優秀な人材を輩出しています。また進取の気風にあふれた町だったので、移り住んで、活躍された人がたくさんおられます。 そういう人たちを随時ご紹介していきます。 |
| 『海の豪商・高田屋嘉兵衛』(1769年〜1827年) |
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今年(2001年)NHK放映で話題になった司馬遼太郎原作「菜の花の沖」の主人公。 高田屋嘉兵衛は明和6年(1769)1月1日、淡路島の五色町都志の百姓で、極貧の長男として生まれる。幼い頃から海に憧れ、22歳の時夜逃げのように島を離れ、親類を頼り当時神戸の中心だった兵庫津に渡り西出町に居を構える。 やがて見習いの水夫から雇われ船頭になり、兵庫津の豪商・北風荘右衛門の後援もあり、28歳で船持ち船頭として独立。そして今でいう総合商社を作り北前航路を主軸に事業を展開する。本宅や店舗、倉庫など船入江の東から北へ取り囲んだ、広大な地域を占めていたといわれている。 事業規模の拡大と共に活動の中心が北海道・函館に移ることになるが、本店は創業の地・西出町から移転することはなかった。 晩年淡路に帰っても育ててくれた西出町を忘れられず、西出町鎮守稲荷神社に海上安全を願って献上したといわれる石灯籠があります。嘉兵衛の西出町を思いやる心が感じられます。 |
| 『日本画家・東山魁夷』(1908年〜1999年) |
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東山魁夷(本名新吉)は明治41年(1908)7月8日、東山浩介・くにの二男として横浜市海岸通に生まれました。本名の新吉は祖父の名をもらったものです。 明治44年・3歳の時、父は鈴木商店(船具商)の支店長だったが商売上の都合で辞め、一家は神戸三宮に転居。その後すぐ兵庫区西出町に移り、船具の東山商店として営業をはじめる。 新吉は大正2年(5歳)信成幼稚園に入園。そして入江小学校。兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)に入学する。小学生の頃から絵が好きで学習のあいだによく絵を描いていた。 中学生になってからは我流で油絵も描くようになったが、異国的な雰囲気のみなとや山が好きで独りで遊ぶことがことさら多かった。 大正15年(1926)18歳、東京美術学校・日本画科に入学。 昭和4年(1929)八ヶ岳の写生をもとに制作した「山国の秋」が帝展に初入選。この頃、父の商売が不振になってきたため仕送りを断り、「少年倶楽部」や「コドモノクニ」などに挿し絵を投稿して自活しました。 昭和6年(1931)卒業と同時に、雅号を魁夷とする。 昭和22年(1947)39歳の時、第3回日展に出品した「残照」が特選となり政府買い上げとなる。これを期に風景画家として立つ決意をしました。 昭和25年(1950)第6回日展に出品した「道」によって、画壇的にも社会的にも認められるようになった。 昭和31年(1956)第11回日展出品作「光昏」で日本芸術院賞受賞。 昭和44年(1969)61歳の時、文化勲章を受賞。また文化功労者として顕彰されました。 平成11年5月6日老衰で死去、90歳でした。 「東山魁夷の道」参照。昭和60年読売新聞社発行
昭和55年入江小学校の創立80周年記念式典には |
| 『水彩画一筋50年・別車博資』(1900年〜1976年) |
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別車博資(本名繁太郎)は明治33年(1900)9月2日繁次郎・ぎんの長男として西出町に生まれる。 入江小学校に通いましたが、家はその学校裏門近くにありました。子供の頃から絵は得意でした。 大正9年(1920)兵庫県立工業学校・機械科を卒業。優秀であったため実習教員となり、 昭和45年(1970)に講師を辞めるまで機械科・美術科の教諭として勤める。 昭和3年(1928)国枝金三氏を師事、画号を博資(ひろすけ)とする。 昭和7年(1932)春、日本水彩画会展に出品した「巨船ブリテン号」「神戸市街」が第一賞を受賞。その年の秋二科展に出品した「倉庫街風景」が入選となりました。 昭和41年(1966)兵庫県文化賞を受賞。 昭和51年(1976)1月2日心筋梗塞で急逝。中央では水彩画会各団体間の交流はありませんでしたが、地元兵庫県においては水彩作家の普及と親睦を目指した会を作ろうと呼びかけられて、兵庫県綜合水彩画会を結成、ひとつにまとめられた。 その功績は誰もが認めるところです。絵も人柄も温和で爽やかな人、地元兵庫・神戸を愛する人だった。 昭和45年(1970)「神戸港風景」や「神戸風景」等「兵庫の120景」を選んで、開催された画業50年の回顧展がそれを物語っています。 「別車博資作品集」参照。2000年伊勢上仁子編集・発行 |