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西出町の歴史と資料

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 西出町は神戸市兵庫区の一番東の端に位置し、その区の境界となっている川崎本通りと、国道2号線と、南は海岸線とに囲まれた内が、概ねの町域です。
 西出町のあるこの地域は平清盛が修築したとされる大輪田の泊、鎌倉時代の頃からは兵庫津と呼ばれるようになり、まちはこの「みなと」と共に発展しました。
江戸時代なかばから明治、そして戦後の高度成長期にかけて主に造船産業に活況を呈しました。
近年産業構造の変化などにより斜陽化。時流から取り残されてしまい、人口の減少、若年層の流出や高齢化が目立っています。町の沈滞・活力の低下が著しくなってから久しいです。
しかし、近代化の波に呑まれずにいたことが、神戸という都市の中で、伝統ある日本の造船産業や町家を今でも見ることの出来る数少ない特異な町になっています。
 ハーバーランドにも近く、ひょんなきっかけでこの町を訪れた人は一様に、こんな都会にこんな町があったのかと驚かれます。
皆さんも、是非一度この町を散策してください。きっと素晴らしい発見があることでしょう。


町の由来
今の川崎本通りを流れておりました旧湊川は、山から土砂が押し流され、永年かかって堆積され天井川になりました。
度々洪水もあって土砂が海上に押し出され、海に突き出た陸地(デルタ)ができました。この突き出た地にできた町であるから出町と呼んだ。
また、ひとつの説で兵庫津の町の中心から新しく外にできた町、つまり兵庫津の出町として形成されたということから町名がついた。
川の右岸の出町を東西に分けて西出町、東出町とした。左岸にできた町は東川崎町としました。
同じような意味で寺町の外に在家信者の住まいが新しくできた出在家町、今出在家町も近隣に町名として残っています。

町の初見
  西出町は神戸発祥の地にあり、古くから栄えたまちです。江戸時代の直前、豊臣秀吉が全国で検地を行ないました。江戸時代に入って約70年後の、寛文13年(1673)の検地帳で、はじめて「西出町」の町名が現れています。
まだ小さいながらも公の町として成立したわけです。現在見つかっている一番古い絵図に元禄9年(1696)につくられた「元禄兵庫津絵図」があります。
これは方位や縮尺が正確で歴史的に大変貴重な絵図といえます。現在の川崎本通が湊川、入江小学校跡地の市営住宅のところが内海(入江)になっており、この間に町場ができていますがそこが西出町と東出町です。
兵庫津の絵図としては、あと明和6年(1769)と文久2年(1862)の絵図が残されています。江戸時代も終わりに近い文久の絵図を見ると、入江の西半分が埋め立てられたことと、浜から西国街道まで全部町場で埋め尽くされたところが変化しています。
この江戸時代の西出町と東出町の縦横に交わるこの町割り、せまい路地は現在もほとんど残っています。

町の人口推移

寛政 8年(1796)江戸後期    1,059人(226世帯. 高田屋嘉兵衛が活躍した頃)
大正 9年(1920)第1回国勢調査 4,459人(931世帯)
昭和40年(1965)神戸市統計   3,268人(801世帯、経済が隆盛していた頃)
平成 2年(1990)国勢調査    1,483人(715世帯)
平成 7年(1995) 〃      1,175人(605世帯. 阪神大地震発生)
平成12年(2000) 〃      1,275人(702世帯)
平成13年(2001) 神戸市統計   1,402人(850世帯)


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