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元禄兵庫津絵図
元禄時代(1696年)に描かれた兵庫津絵図。西出町、東出町(絵図・湊川河口の左側)は小さいながらも公の町として形成されていましたが、東川崎町(絵図・湊川河口の右側)はまだ形成されていません。 |
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文久兵庫津絵図
文久年間(1862年)に描かれた兵庫津絵図。兵庫津の繁栄と共に発展した西出町・東出町は町家で埋まっています。この当時の道は現在でも西出町に一部残っています。
赤い線は西国街道です。 |
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兵庫津細見図
明治2年(1869年)に描かれた兵庫津の絵図。東川崎町に町家が増えているのが分ります。
港には三本マストの船が見えます。 |
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1881年神戸地図
明治14年(1881年)の西出町周辺。「明治前期・昭和前期 神戸都市地図 柏書房」より
中央を縦に通っているのは湊川です。更に、図の中央左寄りには海岸から水路でつながっている入江が見えます。
この入江が埋め立てられて入江小学校が建設されました。現在は入江小学校は統廃合され、跡地に市営入江住宅が建っています。
図の右側の東川崎には貨物駅の湊川駅があります。線路は図の右下にも伸びており岸壁から鉄道桟橋(さんばし)が伸びています。
尚、拡大画像は203kbありますので表示に時間がかかる場合があります。 |
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神戸詳細図
大正12(1923年)「日本近代都市変遷地図集成 神戸詳細図 柏書房」より
この地図を見るとすでに湊川は埋め立てられ道路になり、入江も埋め立てられています。(湊川の地ならし工事完了・明治38年)
拡大図(203kb)では当時の西出町の主要産業である造船関連の商店・工場などが立ち並んでいる様子が良く分ります。
図の中央に国鉄神戸駅(現・JR神戸駅)がみえます。地図上では「べうか」と書かれています。
昔のつづりでは「こうべ」は「かうべ」とかかれていました。その表記を右から読むことろが時代を物語っています。
その下には広大な貨物駅の敷地があります。
神戸港は1867年の開港以後、整備を重ね造船産業や国際貿易で港としての地位を確立していきました。
鉄道の引込み線や貨物駅の敷地の規模を見ても、港湾産業の拠点としての神戸港の重要さが分ります。
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昭和7年発行地図
昭和7年に市販された神戸の市街地地図 和楽路屋発行。
実測は昭和7年以前のものです。
湊川が埋め立てられた道路は新開地と称せられ、すでにこの頃には映画館などが立ち並び一大歓楽街として知られていました。
市電の線路(赤い線)は実際には当時のものと違っています。昭和6年10月に国鉄(現・JR)が高架化され市電は有馬街道で高架をくぐるようになりました。下の測量図参照 |
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昭和7年(1932年)の西出町。「明治前期・昭和前期 神戸都市地図 柏書房」より
黒く表しているのが住宅で、灰色は工場群です。造船関連の工場が沿岸を占め、その労働者の家がひしめき合っています。
この頃にはまだ西出町・東出町の海岸線は砂浜が残っていました。 |
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昭和22年航空写真(1947年)
終戦2年後の写真です。写真の中央部と上部に建物の陰影がないところは空襲で焼失した地域です。
西出町の中心部、東出町と東川崎町の大部分は建物疎開の部分を除き戦災を免れました。 |
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昭和39年航空写真(1964年)
戦後の復興も進み、神武景気、岩戸景気を経て経済は高度成長期に入り、この町を取り巻く環境も変化します。
国道2号線の整備も始まり、同時に阪神高速道路やまちなか倶楽部の前を通る湊町線もこの頃に整備が始まりました。
しかし、町自体は、経済の成長を支える庶民のエネルギーに溢れた下町のまま、姿を変えることはありませんでした。。
尚、湊町線は平成14年春にやっと部分開通します。道路計画の実現は如何に長期間かかるものかが良く分ります。 |
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平成の航空写真 中央にあるのは兵庫突堤です。昭和4年に完成しましたが、震災後にクシ型の間が埋め立てられています。
こうして元禄絵図からの西出町の成り立ちを画像で見ても、西出町の中心部の町割りはずっと昔のまま残っています。
これが、西出町をして現在のワープゾーンとか、ワンダーランドと呼ばれるゆえんであることが見て取れます。 |
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現在と元禄の海岸線の比較 列強に肩を並べよ、と重工業に力を入れた日本の工業化は兵庫津の海岸線を変貌させました。
現在の航空写真と元禄兵庫絵図の縮尺を合わせて比較できるようにしました。
ここでは分りづらいですが、元禄当時の町割りは今でも西出・東出町に残っています。
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